今や「大谷翔平」と聞いて「知らない」と答える人はいないほど有名になられた大谷翔平選手。
もちろん彼も高校生の時は、甲子園という大舞台を目指して頑張ってきた一人です。
さて、大谷翔平選手はいつ甲子園に出られ、出場回数は何回かご存知ですか?
また、その時の成績はどうだったのか。
皆さんが気になる大谷翔平選手の甲子園の出場回数や成績についてご紹介します♪
また、当時の大谷翔平選手のライバルも見ていきましょう!
大谷翔平が甲子園に出てないのはいつで出場回数は?

高校生の頃からズバ抜けた才能をお持ちだった大谷翔平選手。
本当に出てない甲子園なんてあるのでしょうか?
まずは出場回数から見ていきましょう!
出場した回①高2の夏
大谷翔平選手の甲子園デビューとなったのは高校2年生(2011年8月)でした。
大谷翔平選手の出身校は岩手県にある「花巻東高校」。
何度も甲子園に出場経験がある有名な高校です。
そして対戦相手(初戦)となったのがこちらも強豪校「帝京高校」。
結果は7対8と惜しくも敗退しました。
この時の大谷翔平選手のポジションはというと、ピッチャーではなく、ライトの守備位置で先発出場。
意外ですよね!
初回からバンバン投げてそうなのに。
調べたところ、大谷翔平選手は足のケガを負っていたと言われています。
しかし4回途中から登板し、150キロの球を!!
こちらの記録はあの、田中将大投手がマークした球速結果です。
ケガしているにも関わらず、このような結果を残せて凄い!
しかし、大谷翔平選手は試合直後のインタビューで
体の状態に関係なく、自分の力がなかった。もっと大きくなって戻ってきたい
いつも自分にストイックな大谷翔平選手は、この頃から出来上がっていたのですね。
出場した回②高3の春
次は高校3年生春、2012年3月の第84回選抜大会です。
この時の対戦相手はまたまた強豪校で有名な「大阪桐蔭高校」。
気になる結果は9対2で完敗。
この時大谷翔平選手は、初回からピッチャーとして先発出場します!
5回までは調子が良かったのですが、その後相手に流れをもっていかれ、そのまま試合終了。
前年と同じく、初戦で姿を消しました。
この時の大谷翔平選手も、万全の体で挑めていなかったそうです。
まだ、ケガの影響が残ったままの出場となりました。
しかし大谷翔平選手はこの試合で、野球の新生星と言われた「藤浪晋太郎投手」からホームランを打っていたのです。
それだけでも、大きな爪痕を残せました。
高校3年の夏は出てない
大谷翔平選手は高校3年の夏の甲子園には出場できなかったのです。
2012年の夏「全国高等学校野球選手権岩手大会」では準決勝まで勝ち進んだものの、決勝戦で敗れます。
その時の対戦相手は「盛岡大学附属高校」。
しかしこの試合で、盛岡校がホームランを放った球が判定となります。
それは、レフトポールを巻いたようにも、かすったようにも見えるという判断のしにくいボールだったのです。
VARの結果は、ホームラン。
そこから試合は再開しましたが、取り返すことができず、敗退となります。
ここで、少し裏話。
会場が岩手だったせいか、盛岡校の優勝を観客の皆さんは喜んでくれなかったそうです。
また、本当は表から堂々と祝福されながら帰る道のりを「危険だから」と、裏から帰されることに…
しかし、大谷翔平選手は盛岡校に一言「ナイスバッティング!!」と声をかけられたそうです。
この言葉で、ホームランを打ったご本人は、上を向いて帰れたと話されています。
この記事を読んで、涙が出そうになりました。
大谷翔平選手にとって高校最後の甲子園出場をかけた大勝負。
それに負け、悔しい中この言葉が出た彼。
素晴らしいとしか言いようがないですね。
大谷翔平の甲子園での成績は?優勝した?

大谷翔平選手の、甲子園時の活躍ぶりを見てみましょう^^
また結果や、当時のライバルについてもご紹介します。
大谷翔平の甲子園での成績
まず、甲子園デビューとなった高校2年の夏
投手 | 5イ二ング2/3を投げ自責点1 |
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打者 | 3打数1安打1四球1死球 |
そして、当時高校2年生の最速タイ記録の151キロを記録しました。
次に、高校3年生の春
投手 | 9失点11四死球 |
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打者 | 3打数1安打1本塁打 |
甲子園の成績まとめ
投手 | 14イニング1/3 奪三振16 防御率3.77 |
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打者 | 6打数2安打1本塁打 打率.333 |
大谷翔平選手にとって甲子園は、いい成績を残せたとは言いがたい結果となりました。
しかし、イニング数より奪三振の数が多いという驚異の成績を残しています!
甲子園での優勝はしていない
大谷翔平選手は残念ながら、甲子園での優勝はできませんでした。
しかし、必ずしも甲子園でいい成績を残せたからといって、プロになり絶対に活躍できるとは限りません。
また大谷翔平選手のように、甲子園で優勝できなくとも、今現在メジャーで活躍している選手もいます!
更に大谷翔平選手はその年のドラフトで「日本ハムファイターズ」から1位指名を受けました。
その後は日ハムのエースとし、目まぐるしい活躍を残されています。
今では高校の頃からの夢を現実にされ、アメリカへと。
もしかすると、甲子園での後悔や悔しさが、大谷翔平選手の原動力になっていたのかもしれませんね。
当時のライバルは誰?
ズバリ「藤浪晋太郎投手」だと私は思います。
二人は比べられる機会も多く、その時代に1番注目されていました。
藤浪晋太郎選手は高校時代「浪速のダルビッシュ」と呼ばれ、大谷翔平選手は「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれています。
二人とも同じだったんですね(笑)
大谷翔平選手は、ある雑誌のインタビューで「高校時代に対戦して、1番印象に残っている投手は?」と聞かれ「大阪桐蔭の藤浪晋太郎君ですね。」と答えています。
また高校時代、モチベーションを上げる為に、藤浪晋太郎選手の雑誌記事を切り抜き部屋に貼っていたとか!
やはり、藤浪晋太郎選手を意識されていたのでしょう。
そんな二人も今は、アメリカに渡り、それぞれの球団で頑張られています。
実力の差は大きく開いてしまいましたが、あの頃切磋琢磨した思い出は、大切にして欲しいですね^^
大谷翔平が甲子園に出てないのはいつ?出場回数や成績もご紹介!まとめ

高校時代はケガに苦しんだ大谷翔平選手。
甲子園出場回数は2回で、高校3年の夏は出ていませんでした。
また初戦敗退が続き、良い成績を残すことができず、終わってしまいます。
このことについて大谷翔平選手も「甲子園で勝ってみたかったと今でも思いますね。」と悔しさが残っているようです…。
しかし、高校2年生の最速タイ記録を叩き出すなど、確実に爪痕を残して終わったことに間違いはありません。
そして当時のライバルと切磋琢磨し、負けを経験しているからこそ、今の大谷翔平選手があるのではないでしょうか。
今度はいつ、甲子園に「怪物」が現れるのか楽しみですね^^